マシューペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊、通称黒船は1853年浦賀に来航しました。
その様子はかわら版で江戸中に伝えられ、一番売れたかわら版はペリー来航を告げるニュースとも言われています。
それほど衝撃を与えた黒船の来航だった訳ですが、1年後と言い残した通りの1954年、幕府と日米和親条約締結のため再度来航します。
二度目の来航のペリー艦隊は本牧沖に停泊し、東京湾を計測して回ったそうで、もちろんその様子も当時のかわら版で伝えられました。
横浜市のホームページで当時のかわら版が紹介されていますので、リンクします。
『本牧』の文字が確認できますね!
落書きは本牧のどこ?
横浜市のホームページによると「奉行は見物の禁止とともに、そのいたずら書きを消してしまった」そうで、今では見ることはできません。
しかし、場所は旧本牧市民プールのあたりというので、今で言うと「ふぐの碑」の下あたりと推測されます。
今は埋め立てられて面影はありませんが、当時はすぐそこまで海だったので間違いないでしょう。
アクセス
この「ふぐの碑」の下あたりに落書きがされたものと思われます。
アクセス(おまけ1)
日米和親条約締結が締結された場所は、現在公園になっており、記念碑が建てられています。
この条約によって日本は下田と箱館を開港しました。(受験生はしっかり覚えましょう!)
アクセス(おまけ2)
トップの写真はペリー記念館前にある記念碑です。
記念碑は伊藤博文の書です。
記念館にはペリー来航にまつわる資料が展示されています。
まとめ
日本史で覚えさせられたペリー来航は身近なところにも足跡を残してくれていました。
本牧に来たついでに歴史で勉強したペリー来航について思い出してみてはいかがでしょうか。
【受験生は覚えましょう】
ペリーが来航した1853年は「いやでござんす開国は」で覚えましょう。
1年後に返事をすると言った日本政府の元へ再びペリーがやってきます。
1854年日米和親条約を締結し下田と函館を開港します。
これを機に他の国とも条約を結びます。いわゆる鎖国の終わりです。
その後ハリスの要求により、井伊直弼が1858年、不平等条約で有名な日米修好通商条約を結びます。
『通商はイチバンコワイ(1858)と井伊は言う』で覚えましょう。
何が不平等だったのか?領事裁判権(治外法権)及び関税自主権がないということの2点です。
この条約で横浜が開港します。ほかに、長崎・新潟・神戸も開港しました。
また、函館はそのまま港を開き、横浜開港と引き換えに下田は閉じられました。
大人になってからの方が語呂がすんなり頭に入ってくるのは『わたし』だけでしょうか…
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